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雲井龍雄の墓碑

 幕末の動乱期を、憂国の志士、そして情熱の詩人として駆け抜け、若くしてこの世を去った米沢の雲井龍雄は、小さな頃から優秀で、米沢の藩校:興譲館に通学、その神童ぶりは有名だったと言われています。
 22歳の時に江戸出府し、勤務のかたわら安井息軒の三計塾に通い、そこでも頭角を表わし、全国から集まった優秀な塾生と交友を広めると共に、時勢に目覚め、日本の将来を真剣に考ました。
 戊辰戦争後、衆議院寄宿生に選ばれ、明治2年に上京し多くの意見書を提出しましたが、薩摩・長州中心の明治政府には取り入れられませんでした。しかし、その信念を貫く龍雄は、新政府に不満を持つ人々を集め「帰順部曲点検所」を組織、政府に対抗します。
 そして、この決起行動により内乱罪で逮捕され、江戸の牢獄に送られ、厳しい取り調べの後、明治3年12月に梟首という重い刑に処されました。
 「死して死を畏れず、生きて生を偸(ぬす)まず、……」の辞世の句を残し、龍雄は27歳でこの世を去りました。 その生涯は、山形県出身の作家:藤沢周平氏の「雲奔る/小説・雲井龍雄」に綴られています。

<雲井龍雄の墓>
 小伝馬町牢獄で処された雲井龍雄の亡骸は、東京都荒川区の回向院に葬られ、その後、その頭骨が谷中の天王寺に改葬されました。
 また、米沢でも、親族が遺髪を持ち帰り、菩提寺の常安寺に墓が建てられ、昭和5年に、有志の手により谷中に埋葬した頭骨を常安寺に改装し、新たに墓が建てられました。

 


 

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